mimiriのブログ~要領悪くても終わればいいさ~

アラフォーで子ども2人出産し、日々の思うことを書いてます

かわいい子には旅と一人暮らしを経験させよう

31歳の春、私は人生ではじめて引っ越しを経験した。実家をはじめて出た。結婚ではない。転勤での独り立ちだった。

 

新卒で入った会社での採用職種は「総合職」だった。男女関係なく総合職として採用される時代になってもう何年も経つ時代において、それは当たり前のことだと思っていた。2000年代アタマ。就職難の時代だった。「転勤もあるけど大丈夫?」「大都市だけじゃないよ、大丈夫?」「日向や志布志はいいところだよ、あったかいし、メシはうまい。でも、行くことになっても大丈夫?」役員面接でこれでもか、と念を押された。「内定を出しますが、明日また事務所に来られますか?」と総務の担当者に呼び出され、「本当に転勤大丈夫ですか?」「車通勤のところも多いですが、大丈夫ですか?」と、最後の最後、ゴリゴリに念を押された。

 

実は車の運転が全くダメだった。免許は取っても、怖すぎて全然乗れなかった。

「あー、それならムリっすね」とは言えなかった。似合わない黒い終活スーツ、足が疲れるだけの黒いヒール。真夏だった。暑い中、説明会と面接の日々。何社も受けては「ご縁がなかったものと」と言われる日々。就職浪人はできなかった。プータローも、ニートになることも親から許されなかった。ようやく言われた「内定を出します」のひと言に、迷ったり、考えたりするヒマがなかった。

「大丈夫です!!今は運転苦手でも、これを気にうまくなってみせます!私はどこでも生きていけるのを自分の強みだと思ってます!!」嘘ではない。たぶん。若さ故の根拠のない自信。でも、それでよかった。そういうエネルギーだけで前に進むことが許されていた年齢だった。

 

しかししかし、入社してみての配属は本社総務部。なにが志布志だ。都内ど真ん中じゃないか。しかも、転勤職種しか募集していないと謳っていたはずが、ガッチリ縁故採用で転勤しない職種のキラキラ女子の同期が何人もいて、総合職女子は私ひとり。完全に拍子抜け。そして貼られた「あの子はバリキャリ目指してる」のレッテル。でも事務用の「女子制服」の着用は指定される。完全に中途半端な立ち位置。ザ・昭和の会社。

 

しかも入社まもない仕事は、大量の雑用。

大量に届いた郵便物を各部署のボックスに分ける。

蛍光灯が切れたら新しいのと脚立をもって、静かに連絡をくれた部署に出向く。あくまで静かに。存在感を消して。「朝からチカチカしてたんだよね。もっと早く気付いて、こっちが連絡する前に取り替えてくれておくくらいの気配りができないとちょっとアレだよ」とか言われながら。制服、スカートなんですけど脚立乗るってどうなのよ。てか、脚立乗っても届かないし。

「総合職の給料もらっておきながら、アルバイトでもできる仕事しかしてないってどーなのよ」お局的お姉様たちからささやかれる陰口。女子更衣室、あるいは女子トイレで私が入っていくと、聞かれたか!?と急に静かになる空気。知りませんよ、こっちだって好きでやってるわけじゃない。業務内容に不備があるなら、総務部長に言ってくれ。

 

入社から何年か経ってもそんな生活の毎日。前任者の女性の先輩も総合職採用だった。「私は郵便屋さんになるために、この会社に入ったんじゃない」と、けっこうソッコーで転職していった。センパイの決断は正しかった。でも、私は「陰口上等。こんだけの仕事で給料もらえるなんて、超ラッキー!」と、なにも人生を考えずにぬるま湯ライフを充分に謳歌してしまった。運転もとりあえずはしなくて済んだ。考えてみれば、ある意味メンタル強いのかもしれない。

 

総務部では、その後いろいろなことを担当させてもらった。本社事務所の引っ越し。株主総会や取締役会の事務局。固定資産の管理。会計システムの変更。広報。採用。教育研修。もちろんペーペーの平社員で、ほとんどが「センパイのお手伝い」だけど、けっこう会社にとって重要な業務を経験させてもらったと思っている。気付けば10年近く総務部にいた。本来なら、もっともっと早く異動させてもらうべきだった。

 

異動先は関西だった。しかも営業部署ではなく、管理部門。がっかりだった。

私は、営業部門に行ってみたかった。自分の働く会社が、どうやっておカネを儲けているのかリアルに知りたかった。なにより、「地方の管理部門は、仕事のできないヤツがいくところ」という社内の空気があった。営業で多大な損失を出した人。顧客とのコミュ力がなく、「恥ずかしくて外に出せない」人。営業部門が稼いだカネで給料をもらっている、会社のお荷物たちの寄せ集め。あからさまに「かわいそう・・・なんの失敗しちゃったの・・・」と同情してくる本社から一歩も出ることのない職種のキラキラお局お姉様たち。「まぁ、キミにはしょせん営業の仕事はムリだよ。お客さんと絶対すぐケンカしちゃうでしょ」と、まだ実際はしてもない失敗を想定してマウントダメ出ししてくるゴリゴリの営業部署男性センパイ。

 

「キミはホントは営業部署に行くことになってたんだよ。だけど実は社内恋愛していたコがね、相手の男性を人事異動にしたら、結婚して彼について行くから辞めます!今すぐ辞めます!って言い出したんだよ。だから頼む。とりあえず人手が足りないから行ってくれ」

そういう理由であった。人事異動を司る総務部長直々に、送別会で最後の最後に聞かされた。入社10年にして再びやってきた、ザッツ雑用な役回り。そういう転勤だった。

 

本社への最終出社日。専務室に挨拶に行った。

「キミならすぐに向こうの水に慣れるよ。バリバリの大阪弁バイリンガルになれるよ」

どんな応援だ。

 

最終日はギリギリまで業務が終わらなかった。

「本社の決算をキッチリ締めてから行け」「ミス無く締めてから行け」

木曜日の夜だった。金曜日の朝に着任だった。無情だ。きつすぎる。「総合職は転勤あるよ、大丈夫?」役員面接での執拗なまでの確認は、ウソじゃなかった。東京駅で駅弁を買って、20時過ぎの新幹線に飛び乗った。

 

人は誰でも幕の内弁当のおかず。たいしたことない副菜でも、寄せ集めればそれなりに豪華になる。ごはんの端にちょんと乗った柴漬けでもいいけれど、ごはんの真ん中に乗った梅干しも目立つけど、どうせならメインの海老フライになってやる。

そう思えるほどの野心があったら、もっと得られるものが多かったかもしれない。私は、ただ会社に自分の運命を任せて流されていた。

 

金曜日の朝は駅から15分かかる道を、はじめて歩くその道を、わかりにくいから、と先輩が送別品として書いてくれた地図を持って進んだ。スマホのないガラケーの時代であった。

 

無難な初日だったんだと思う。歓迎会をやっていただいてホテルに泊まった翌朝早朝、まあまあ大きい地震が起きた。阪神大震災ではないが、淡路島付近が震源地だった。上司が電話をくれた。初対面で冷たいと思っていたお局様も電話をくれた。歓迎会で番号を交換させてもらっていてよかった。

 

借上社宅はJRの駅が最寄りだった。その最寄り駅からの行き方しか調べていなかった。そしてJRは地震で止まっていた。タクシーで向かった。あとから考えれば、阪急と阪神でも行けた。ホテルの人に聞けばよかった。タクシー代の3千円は授業料だ。わからなければ、素直に誰かに聞けばいい。

 

電気のブレーカーの場所がわからなかった。一般的にトイレの中にある、ということを知らなかった。電気がなかなかつかなくて泣きそうだった。諦めてトイレに入って箱を見つけた。

 

オートロックのマンションだった。

オートロックというのはホテルの部屋みたいなものだと思っていた。自分の部屋の玄関も鍵を家の中に忘れたら入れなくなると思っていた。オートでロックされるのは1階だけだった。マンション内で泥棒に入られる前に気づいてよかった。

 

トイレットペーパー

ホテルでもらえるような紙のスリッパ

捨ててもいいフェイスタオルサイズのタオル

 

この3つは手持ちで持っていたほうがいい。

タオルは床掃除にも使えるし、座布団代わりにも使える。床掃除したあとのタオルに座るのはイヤだというなら、掃除したあと時間が余ったら床に座って何かしようとするなら、2枚持っていったほうがいい。

一番大事なのは、「新居に到着してから、引っ越し業者が来るまでの時間をどう過ごすか?」をイメージして、何が必要となりそうか想像することだと思う。賃貸物件であれば、入居日当日に何かあったときのために不動産屋さんの連絡先はしっかりおさえておいたほうがいい。

 

その街には約5年住んだ。コロナ禍で行くことはできないけど、大好きな街になった。エセ関西弁で反感を買いたくなかったのでバイリンガルにはなれなかったけど、知り合いはまあまあできた。

 

知らない街で、一人で生活して、強さと優しさを学んだ。人は強いだけでも優しいだけでも生きていくのは難しい。娘にも息子にも一人で生活する大切さを経験させよう。かわいい子には旅と一人暮らしの経験を。

 

つらいことも色々あったけど、私は今、なんとかやってる。過去の自分が「まぁ今まで何とかなったし、なんとかなるんじゃん?」と言っている。

 

ということで、今週のお題「引っ越し」

感じたことを文字化する大切さに気づかせてくれる、今週のお題。自分に向き合う時間ってやっぱり大切。