mimiriのブログ~要領悪くても終わればいいさ~

アラフォーで子ども2人出産し、日々の思うことを書いてます

【読書ノート】神・文章術 圧倒的な世界観で多くの人を魅了する

私がブログを始めたきっかけは、この方のブログを読んだことだった。

フミコフミオさん。はてなブログのブロガーさんで、普通のサラリーマン。「私も書いてみたいぞ」と思わせてくれた人で、私の読者購読リストに最初に登録した方。

本を出された、とブログで知ったので、図書館に購入リクエストを出してみたら買っていただけた。自費で買ったわけでない罪悪感はあるものの、図書館に置かれることで結果的に多くの人に読まれることになればそれはそれでいいだろう。

 

出会いはたしか何かのネット記事だった。ざっと読んで、この人はおもしろい、と思った。なんでもない会社生活でのことをこんなにおもしろく書ける人っているんだな、と思った。

ブログはやってみたいと、前々からうすらぼんやり思っていた。Facebookで日々の出来事を書いていたときに、知り合いが「ブログやってみなよ」と勧めてくれていたけど、不特定多数の人に見られる文章は書けません、と自分にリミッターをかけたまま、10年以上あっという間に過ぎた。

子どもが生まれて、とある育児関連の勉強会的なものに参加したときに、「ブログで育児日記書いてます」という方がいて、「ブログはいいですよ!!書きたいと思う気持ちがあるならぜひ!!」と熱く語られたけど、やっぱり不特定多数の人に読まれるものを自分が書くのはちょっと怖い・・・と、なんとなくズルズルと日々を過ごしていた。

夫は「ブログはやってみる価値あるよ」と勧めてくれて、はてなブログでアカウントを作るのを手伝ってくれた。「育児日記を将来子どもに残すために、共同でやろうか」というので、フミコフミオさんがペンネームの参考にしたという藤子不二雄的に、列車の名前を二つつなげたペンネームにしてブログを立ち上げた。

が、ネットにさらされる危機感とか、人の役に立つ記事を書く、みたいな話ばかりを夫から聞かされ、とりあえず怖いから非公開にしていつか公開・・・と思っているうちに、結局夫はひとつも記事を書かないという不満もあって、全く書かなくなってしまった。

 

私にとって、ある程度の人の目は大事だった。「ダイエットします!」と周りに宣言したほうが続けられる、というのと同じ現象かもしれない。

しかししかし、やっぱり人の目にさらされるのは怖いなぁ、と思いながら書いていた。

この本を読んで、何か少し吹っ切れた。

 

「誰かが読みたいもの」ではなく「自分が書きたいもの」を書こう。

カバーを開いたところに書かれたことばに惹きつけられて読み始めた。そうか、それでいいのか。もちろん、不特定多数の人の目に触れる上で気をつけたほうがいいことを知っておくことは大事だけど、基本的に自分のために書くのは自由なんだ。

 

モヤモヤした気持ちは、裏紙に書き捨てる。書くことで思考や感情が整理される。日記でそれをやっていたけど、残ってしまったものをあとで見てまたイヤな気分がブーメランのように返ってきて「オエッ」となってしまって、その場ではいいけどなんだかなぁ、と思っていた。

捨てちゃえばいいのか。裏紙で。書いて丸めて捨てちゃえばいいのか。書くことでストレスを整理すればいい。今度から夫への怒りはそうしよう。ボールペンのインク代なんてたいしたことないわ。問題はそれをいつやるかだけど、30分早く起きて、「イビキうるさくて眠れない」とか書いていたら、書くうちに何か見えてくるかもしれない。もしかしたら睡眠時無呼吸症候群なんじゃないかとか、健康を心配してあげたりできるようになるかもしれない。自分の気持ちを整理して言葉にして、自分にベクトルが向けられば、原因を自分に見いだして行動を変えられるかもしれない。それで自分のストレスが逃がせるのであれば、いいではないか。

 

文章の書き方がどうだとか、こんなことを書いたら読んだ人が気分を害するかもとか、読んだ人の時間を無駄にさせてしまってはとか、役に立つことを書かないととか、色々気にするから書けなくなるんだ。

「書くことはもっと自由でいい」なんて力強いメッセージだ。はてなブログと出版社がタイアップして出版された本だということなので、踊らされている感はあるけど、それならそれで楽しく踊ればいいわ。踊らにゃ損損。それで自分が楽しめるなら、それでいい。そう思いながら書き始めたら、案外すらすら書けた。

 

文章の技術的な方法を書いているわけではなくて、書き続けることについてのメリットが書かれている。それだけ、といえばそれだけ、なんだけど。ブログをはじめたばかりの私にとっては、まさに「自転車のペダルをこぎ出す勇気」になった。

 

「俺もブログやるわ!」と年の初めに息巻いていた夫は、聞くと結局1本も書いていないのだそうだ。今は3月になりましたよ。1年のうち6分の1が終わりましたよ。偉そうなことを言ってばかりで何も出来ないヤツの言うことなど、今後は聞き流そう。

「奥様がどれだけ理不尽な発言をしても非難したら負け」
そんな風に思って押し黙ってくれるような夫だったらどんなに幸せだっただろう・・・、と思うけど、私は私の武器を持って夫と戦えばいい。

 

「何ものにもなれなかった」という人は、単に「何かになろうとしなかった人」という行がグサリ。同級生の活躍を見て、あぁすごいな、私はどうしてあんな風になれなかったのかな、と思っていた。何かになろうとしていなかったんだ、私は。
先日、「今週のお題」で試験についてがテーマになっていたけど、何かになっている人はそれを目指してちゃんと努力したわけだ。
 
今から何かになれるだろうか。40歳すぎちゃったけど、まだ人生半分あるし。育休を利用して少し考えようという気持ちになってきた。本当に今の会社でいいのか。本当は何がやりたかったのか。夫の稼ぎには頼れないけど。これといった能力も資格もないけど。書くことで自分の強みを見つけていけるかもしれない。

今朝のあさイチ「生きがいを見つけられない女性たち」の特集で脳科学者の茂木健一郎も言っていた。「これからの人生を考えたら、今が一番若い」のだと。ヒザ打ちモノで納得のひと言。

 

フミコフミオさんみたいなセンパイが会社にいてくれたらいいのに。と、思ったところで気がついてしまった。

私も立派にセンパイとして活躍しないといけない年齢にとっくになっている、ということに。そうならば。そうであるならば。自分がそういう人になるのを目指すのもいいかもしれない。

 

フミコフミオさんが書いたブログを1冊にまとめたほうの本、『ぼくは会社員という生き方に絶望はしていない。ただ、今の職場にずっと・・・・・・と考えると胃に穴があきそうになる。』は図書館にあったので予約で取り寄せた。早速読んでみるとこちらもおもしろいので、それはそれで読んだら読書ノートに書くつもりで読んでいる。

 

書くことは完全に自由。アウトプットにブログを使おう。

自分で運転できる車のハンドルを他人に預けるな。限りある人生の、限りある自由。仕事でも、家庭でも、制限の多い日常。コロナでさらに制限が加わった毎日で、わざわざ自分の気持ちや表現にまで制限をかけるのはもったいない。
力強く、自転車のペダルを踏もう。船に乗り込み、オールを水に入れよう。その船を漕いでゆけ。おまえの手で漕いでゆけ。そうだよ、ボートは後ろ向きで漕ぐものなんだよ。後ろが見えなくても漕ぐものなんだよ。その昔、取引先の人に誘われて、取引先のローイングクラブに通っていたことを思い出す。婚活のために行っていた感があって、そういう意味ではまったく意味なかったけど、こんなところでひょっこり思い出すとは。人生、無駄なものはないというフミコフミオさんの話に妙に納得。
 
風を感じて進めそうな気がしてきた。一人で書くことは、花見でにぎわう千鳥ヶ淵で恋人たちが向き合って乗る中、ひとりでボートに乗るよりずっとずっと簡単。千鳥ヶ淵どころかあの手のボートは乗ったことないけど、今ならそれすらもできそうな気がしてきた。サエないオトコとボートに乗って船もろとも転覆するより、ひとりで乗り込んで転覆したほうがいい。誰のことも責めずに済むし、きっと納得もいくだろう。なにより挑戦した晴れやかな気分は残りそう。まだ寒いから絶対にやらないし、暖かくなってもやっぱり転覆はいやだから絶対やらないけど。

 

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