時の流れの無情さに気づくとき
消費期限まで1週間あるから、と油断していたら、豆腐も厚揚げも納豆も消費期限がきているのに気付き、しかもそれが同じ日に到来して、豆腐たっぷりのお味噌汁、厚揚げたっぷりの野菜炒め、ごはんのお供に納豆。という「大豆フェスティバル」な夕食になったとき。
図書館で予約して、楽しみに待っていて本が届いて、1ページも読めないまま、次の人が待っているから2週間ですぐに返さないといけなくなったとき。
子どもの爪が伸びてるなー、切らないとなー、嫌がるからテレビ見せてるすきに切るしかないなー、と思っていたら、1日30分、と子どもと約束している貴重なテレビタイムは夕食の支度だけで時間切れになり、今日も切れなかったわ、今日も切れなかったわ、と思っているうちに、イヤイヤでバタバタ暴れる子どもを抱きとめてひっかかれて痛い思いをしたとき。
お風呂を洗う気力がなくて、子どもたちだけとりあえずシャワーして、自分はあとで、と思っていたら寝落ちして、朝も寝坊して、子どもを病院に連れていくことになって、病院から帰ったらシャワー浴びよう、と思っているうちにあっという間に夕方になって、結局自分は2日間シャワーすら浴びてないじゃん、と気づいたとき。
それで次の日は早起きして、お風呂場が寒いから暖房を入れているうちに、昨日の夕食後に洗い残したお皿を洗っていたら、暖房のタイマーが切れてすっかりお風呂場が寒くなっているとき。
日記を開いたら、3日書けてないことに気づいたとき。
そんなとき、時の速さの無情さを思い知る。
そして、ちょっと落ち込む。できなかった自分に。
こんな毎日を繰り返していて、あっという間に2月が半分過ぎてしまった。いや、半分じゃない。2月は28日までだから、3分の2だわ。
育休の間になにができるか、焦ってばかりいる。
第2子のお世話、夫の在宅勤務で昼も手が抜けない食事と皿洗い、保育園の連絡ノート…洗濯は夫の担当で育休でもそれは変えてないからまだいいのに、日々の生活で手が回らなくなっている。
たぶん、多くを求めすぎているのかもしれない。
最低限のレベルが少し高いのかもしれない。
マジメに生きようとしすぎているのかもしれない。
夕食が大豆フェスティバルになったら多少飽きるけど、でも別にどうってことない。夫は食卓が大豆フェスティバルになっていることすら気づかない。うちの2歳児はスーパーベジタリアンなので、むしろ喜ぶ。消費期限が数日切れていても、腐りはしないしどうってことはない。
図書館の期日が過ぎるのはどうかとは思うけど、大幅に切れなければ、正確にいえば私の住む街では60日過ぎなければ貸出停止にはならない。
子どもの爪が伸びているのはたしかに危ないけど、それに気づいて、いずれ対処しているからたいして問題はない。
シャワーだけだって生きていけるし、風呂につかる習慣がない国だってたくさんある。2日間入れなかったら気持ち悪いけど、死ぬことはない。
温めた風呂場が冷めても、電気代は無駄になるけど、また温めればいい。皿洗いした。エライ。夫よ、夜中まで起きてるなら洗っとけ。
日記は書けなくても誰も困らない。日記つけてるだけエライ。
思えば、時間や社会のルール、健康的に生きることに厳しい父だった。
主菜1品、副菜が必ず2品以上あるバランスのいい食事を手料理していた母だった。
「きちんと育った」んだと思う。
大豆フェスティバルな夕食や、図書館の期限、子どもの爪が伸びていること、お風呂にちゃんと入ることを気にして生きていること自体、悪いことじゃない。全然悪いことじゃない。心が苦しくなるレベルの話じゃないし、色々やっててエライじゃん、とまわりの人は言ってくれる。
ベターライフを追求するのは悪いことじゃない。効率をあげて好きなことをする時間を作ることも大事。「いい親」でいようとするのも悪いことじゃない。
でも、できなかったからといってどうってことはないわ。と言って、ズルズルと無駄に年を取り続けている毎日だけど、家族が健康で1日を終えたら、とりあえずそれでいい。
できていることに目を向けたらいい。
案外、できていることはたくさんある。
そう思わないとやってられないわ。